新垣

罪人の記

新垣の最近の事

私の最近のソレは愉快と表現する。私は休暇の中でストレスを和らげ新しい趣味や興味を膨らませたりした。病みに対抗できるのは変化する事だと思う時もあって躁状態の今こんな事をして心身を満足させる事に専念している。

 

アイディアが良く出るようになった。個人的にとても興味を持てるものや、笑い話には美味しいだろうなどといった、所謂天狗状態になったともとれる。面白いか否かはさて置き、この状態でどんなアイディアを出せるか自身に期待している。

 

欅坂にハマった。これが1番でかい。アルバム買っちゃおうかなとも検討中である。アイドルだけあって、顔、衣装は勿論、歌詞、曲、踊り、そしてそれらに対する姿勢やカメラワーク、などといったソレにとても関心を持っている。何から何まで私に刺激的なものを与えるのだ。そしてソレにハマって気付いたこともある。私自身、考えや他の事事が、とても古いという事だ。アナログ人間。表現自体はユニークで現代味を秘めてる響きだが、意味さえ分かっていれば「皮肉かい?」と冷たい口調で睨むであろう。

 

これもでかいが短編小説にハマった。何故長編では無いかと言うと、自身の集中が持続しなく、諦めが早くて読書を楽しめない様な状態になっていたからである。芥川龍之介をはじめとする様々な短編小説をこれから読んでいきたい。私は芥川龍之介が好きだ。彼の短編小説だけで無く、彼の思想にも興味がある。

 

最近よく読むのが太宰治だ。人間失格を読んでとても心を打たれたが、どうやらあれは、通者達は、それを最高傑作とは言いたく無いらしい。何処かの界隈とも似ている。大人しく天国への階段が好きとでも答えれば良いものを、「にわか」と言う単語は、自ら使うには楽だが他から言われると虫酸が走る。お前は何様だ?                          俺かい?俺は、駄作だ。

駄作が!喋るな‼︎

 

忘れてくれ。あつくなった。

 

我こそ我こそと欲を張り

他の欲を悪と言い張る。

君のソレは平常かい?

まさか、笑ってくれても構わんよ

煙草の吸い口忘れたの?

煙草に入りも出もあるもんか

そこからだと、不味いだろう?

構ってくれるな暑い月光

 

 

或る休みの日の事でした。私がジャズに耳を傾けたのは。それはとても暑い夜だったと記憶してます。ですので、エアコンを動かして冷たく風を吹かせました。しかし1人では寂しく思い、又、物足りないとも思えました。ですので、前々から興味のあった「ジャズ」を流すのは、とても良いタイミングだと、思えたのです。以前耳にした「チャーリーパーカー」というこれ又素晴らしい評価を得たサックス奏者の演奏を聴いたのです。その日の夜は、何と申しますか、エッチな気分になる、と申せば言い過ぎで、気分が高々に上がった、と申すと足りない気がしました。あの日の気分は、一体何なのでしょうね。

 

 

新垣は1つ歳をとった

今日は誕生日だが、タイトル以外の感想が無く、特別な雰囲気が全くない。今まで誕生日は何かを象徴する特別な日だったような気がするが、今では特に何とも思わないの、なんか変な気分ね。

詩 :憎

憎い。

 

己の存在が憎い。

我の苦を

我の恥を

我の鬱を…

 

刺す。

 

苦しみを刺す。

己を刺す。

死を受け入れ愚かになる。

刺して無へと還る。

 

 

新垣の迷い

憂鬱なソレは、まるで私に飽きたように去っていった。再び我が心に清々しい風が吹いて来たのはこの後からである。しかし、風が吹いても、私の心の中に残っている迷い、や、不安、などは吹き飛ばせずにいた。ボンヤリと1日を過ごして終わりを嘆き後悔する日々は今ひとつ変わらず。唯、時の流れに身を任せ、再び憂鬱なソレに飲み込まれるのを待っているようにも感じてしまう。愚かにも、私は次なる憂鬱に対抗せず、むしろ飲み込まれに行くような姿勢に見えるだろう。それは、上記で述べたその不安や迷いの所為だと、少なくとも私は思っている。

 

今日の夕食の時間。私は肉料理を食べ、心身を満たそうとした。そこにキャベツの千切りサラダを見た。箸を近づけようと手を伸ばしたとき、ふと私は考えた。

何故、この植物は今世まで後を継いで生きるのか

 

そんな事を我々人類が、その種の生物たちを嘲笑い、冷たい目で睨むような残酷さを感じた。

少なくとも、その手の質問は我々人類にも言える事だろう。何故だろうか。可愛げのない阿呆は子孫を残すため。又或るキザな者は与えられた人生を自分だけの物にする。など言うと私は予想した。勿論、それらは間違いでもなんでもない。事実である。しかしながら、子孫を残すことは彼らキャベツ達にも言える事であろう。仮にキャベツ達に与えられた人生を自分だけの物に出来ないとしても、我々がそれらを区別して見下す意識を持つ事は罪に値するものではないのかと考えた。食事は喉に通らなくなった。申し訳なさはこれっぽっちも無かったのだが、不思議でたまらない。私はその、不思議でたまらない、と言う言葉が昔から嫌いだった。自分自身は常識人だ。自分自身は大衆の意見に沿っている。などと言う理解し難い自信に近く、愚かな思考だと思っていた。然しこうして見ると、自身も老けたものだと痛感するようにも思えた。

 

 

故に我々は頭を柔らかくする必要がある。それだけではなく、自分自身の意思、や思想、が必要になる。唯、自身の絶対的な正義と、絶対的な常識は除く。この正義、や常識は、一定値を超えてはいけない謂わばネット料金に近いものだと思う。或る程度の量は他者を満足させることができる。が、一定値を超えては他者を不快にする。見極める為、又相手を尊重、理解する為の柔らかい頭と、自分自身を象徴する考えを必要とする考えを一層強める事も必要なのだと、ブログを更新するに当たって染み染みと思う。

 

 

新垣と道化

長期休暇というありがたい言葉を頂いたにも関わらず、相変わらず私に良い人格の私を演じさせようとするのだろうか。私の周り、つまりは友人の多くは、それを望んでいるし、それを好んだり嫌ったりする。しかしながら、私を構成しているものは少ない娯楽と死への興味などが主である。それを詳しく述べる予定は無いのだが、周りはその中身の少ない器の皮を評価したがる。器の錆を鑑定する鑑定屋など私は聞いたことはない。ましては、ぼろっと本音をこぼしても、途端に口を閉ざそうとする。器の小ささを多くの友人は大きく見せたがるものだ。私はK殼に値する小ささの筈なのだが……

 

 

もちろん、私の器の小ささや私の本音を受け取り、拾い集める物もいる。数は少ないが、それらは、僕の貴重な支えと称する存在だ。しかしながら、それらの中にも、まるで白紙一枚のように軽く、真っ白な対応をする者も少なくはない。その方々や、多くの友人達には、とても型では表現できぬような不愉快な感覚に襲われ、恐る。そして震えだす。私の心身はプレッシャーに弱いようだ。手が震える、というのは生活に支障が出る、とても不愉快な作用なのだと私は考えてる。これらの存在から縁を切るのも良しとするならば、生活の為に待っている反感への対応の策とやらを練る必要が出てくる。

 

同時に、それらに属さない、中間とも言い切れない、中途半端とも違う、良い加減とも表現できぬ存在である。自他の距離を見出せる賢人や、俗に言う何も思わない他人とは、そのようなプレッシャーはない。故に私のクラスはとても疲れる悩みの種であると同時に、距離をわきまえてる集団と接する場なので楽な一面もある。私も深く考えなくて済むので、有難く文句を言える身にもなれる。民主主義の自由一覧を活用できる場でもある。対に、私を苛立たせる者達の集団的暴行とも言える精神的攻撃に近い絡みは、なんとも言えない疲れを引き出すストレスの元でもある。

 

 

私は、器の小ささを認める者以外には、仮面を被せた道化を演じている、という比喩表現が似合う気もしないわけでもない。道化を見て、人々は満足してきた。そう考えてみると、やはり私は、求められた状況などに手を出して取り組むのが、人生の課題なのかもしれない。しかしながら、今の私に分かるものは、なんとも言えない、なんと捉えて良いかもわからない、唯ボンヤリとした不安、と名乗るにはまだ早いが、ボンヤリとした何かが私の中でうごめいてる。そして、それは、私自身を何かに駆り立てる時もある、というのも事実なのかもしれない

新垣と不眠

無駄な病みから1時的に解放されたと思いきや、今度は不眠である。神様もよっぽどの物好きと見える。私は夜早く眠ろうとは心がけている。少なくとも11時までにはベッドの中に潜り込んで、静かにしている。寝返りを打ってしばらくしたらウトウトするのは良いのだが、足が下敷きになって血が溜まって行く感じがする。これがとてもとても不愉快なもので気がそちらの方に行ってしまって安心して寝れたのもではない。私は溜息を吐く羽目になったという訳だ。

 

それはさておき、私は太宰治人間失格を読んだ。葉ちゃんと私を結ぶ何かしらのモノを共感できた。悪い意味で、だ。それらのせいで私は大人しくできず本を読む羽目になったのだ。オマケに図書館なのにうるさい奴も出てくるもので、それはそれはとてもたまったものではない。しかしながら、その内容、文の構成はとても美しく繊細かつ緻密に描かれていた。買いたい。私の創造心を大いに刺激した。これは良いことだと思う。以上、ではこれにて。

楽しいことと死にたいというこの2つ。関連性があると思っていたが、今はそうは感じない。楽しいことがあってもとても死にたくなる時だってあるのだ。現に私は、仮面ライダーblackのおかげでとても楽しい思いをし、チャーリーパーカーを聞いて、最高の気分だった。しかし、そこでふと思ったのだ。このまま死ねたら良いのに、と。その発想は後にそうなればよかったのに、という無責任な後悔へと変わっていったのだった。LINEの一言において、友達のそれが不穏な空気で漂っていた。しかも1人だけではない。この状況下で、私は自身に向けた矛と想定し、とても憂鬱な気分にさらされている。馬鹿げた発想かもしれない。想像の翼が一回り大きかったのかもしれない。しかし、この行為が、この発想が、自身を守る盾の役目だとすれば、これも仕方のなかったものだろうか。世の中の出来事は必然にて動いている。その必然に従って友達に嫌われるのなら、私はとんだ罪人かもしれない。死んで詫びるには重すぎて、友達を無くすには軽すぎる罰。そうやってじわりじわりと罰を命じるのだろうか。もし神が、人と同じ姿ならば、私は口が滑って「人が人に罰を与えようなどと」なんて事を言いたくなるかもしれない。しかし、神にこんな事を言うのは、仕方がない。神だって、私以外の誰かに、似た様な事を言われている筈だ。今日ばかりは、神に同情して、罪を受けるとする。しかし、神という存在はとても悲しくて、辛いのではないかと思う。そしてこうも思う。我々が呼んでいる神、という存在は、4次元の人々ではないのか。4次元の人々の想像において、我々が生活しているのではないか、と。4次元の人々も、多々いるであろう。世界は我々が思っているよりも広いのだろう。いや、唯の妄想が膨らみすぎた。これは色々な矛盾が見える。指摘されるのは好きじゃない。ここはやめにする。ところで、神、という存在は我々を救ってくださる聖なる存在か、我々に罰を与える怖の対象なのか、と。これも私の存在豊かな翼が、広々と羽ばたいているのかもしれない。そもそも、この話に特に意味はない。却下にする。ところで、私は踊らされている気もする。相手の一言が挑発的に見えたからだ。私をからかうには充分すぎる挑発の仕方だ。1つの出来事だけでもどうにでも考えられる事ができる。世界の旅は、まだ完成してはいないのだろう。大陸をまたぐとかの意味ではない。昔から続いてきた新たなコミュニケーション、という世界において、人は攻撃したり、されたり、その大陸に上陸できずに、死を選ぶ者もいる。物事において、様々な考えを持つ。と言う事を、先人達は個性と表した。が、しかし、それらはもはや、事実と名乗ったとしても今や当たり前の世の中になっている。その人々の個性ではなく、見所を変えただけの真実なのだ。そう感じる。今、我々に待ち構えているのは、攻撃に耐えて上陸するのか、攻撃に絶えて死を選ぶか。とても鬼畜な上陸作戦である。この、歴史上誰もが挑んできて、上陸出来たものが繁栄しているこの世界で、今誰かが、コミュニケーションという名の大陸を書物で保存する者がいるのだろうか。