新垣

罪人の記

新垣の誤り

時が今も刻々と過ぎ去っていく中で、お前はどれほどの暇を持て余したことだろうか。お前はスタートラインに立っていることも忘れ食っては寝て。誰も教えてくれなかったのだ。お前は慌てて足を踏み入れ何を追うのか。お前はもう追われてる。

 

 

 

私はいつから分岐点を誤ったのか。もっと上手くいけていた気がする。いや、それもこれまで膨れ上がった傲慢な態度が見せる幻覚かもしれない。これは夢であろうか。それは無い筈だ。痛みを感じる。幻覚が見せるものには痛みがあった。笑われるように冷たく、睨まれるように刺さってくる。不器用なモノ、なら笑い者になる。恥、とはよく言ったものだ。私を表している、などと過剰に敏感になってしまった。

 

 

他人を認めても他人が認めるものでは無い。人格が人格なのか、表面だけで満足してるのか。とても寂しくもなる。民主主義の世界は過ごしやすい日々を送れる筈だが、応用して残酷な表現で人を刺す愚か者が捻り曲げた世界で、私は嘆くことしかできない。そこに、協調というものがあっても、人は完全には理解できないものだ。人脈を広げれば、それに伴いそれの罪が罰せられる。逆もそうだ。人はそう上手くは出来ていない。

 

人を全て認めるのは不可能に近い。人は矛盾に矛盾を被せている理屈を持っている。それを全て認めることは他人を同情しているのではなく、自分の主義を貫き通す、という言い方に近くなるからだ。最も、この言葉に意味のないものなら、この話は終わりだと理解して、退場願いたい。

新垣の循環している憂鬱

twitterというこれまたダメな人達が集まっているサービスを利用して、ブログを更新すると堂々と宣言してしまったからには、今こうやって画面と面向き合って文字を打っている。しかし参ったものだ。今の私にはネタと言えるような面白い出来事がない。それはそれは、生まれてきてからもそんな童話のような世界を私の目が捉えてきたのは絵本とかTVとかのメディアの類だけである。粋と言うには程遠い感性なので、大変損を重ねてきたであろう。のちの歴史家がどう捉えてくれるのかが、楽しみである。

 

今思えば、私の憂鬱な気分は循環している。どうせ何も解決しないまま心は晴れ、また曇り震えるのだろう。なんと無意味な循環なのか。エネルギーの消費である。無駄な行動である。意味のない遠回りである。時間潰しの助長である。それを考えるだけで我を見失っては、また嫌になるのだろう。これも循環の1つならば、私はどれほど狭い世界で生活しているのだろうか。

 

後先を考えると心がとても痛くなる。なぜなら、想像した先には、私以外の人が見当たらないからである。今後の展開を予知しているのだろうか。ならばそれは、そう遠くはないだろう。これから先にも苦痛が待っているのかと考えるだけで、もう充分な気持ちになる。心を害されると、また悪循環の始まりである。友達を信用できなくなり、また離れ、ついには1人になりましたとつまらないbad endを迎えるのは私は受け入れない。受け入れたくないのだ。

 

人はそれほど上手に出来ていない。最近はそればっか感じさせては、他人の悪意を紛らわせてきた。確かにその通りだが、他人の悪意を紛らわせて一体何になるのだろうか。分からない。そこで昔、友達を肩指に収まる程度まで減らすプロジェクトを進めたことがある。結論は、放棄した。何故なら、無謀だし、計画性がなかったからである。しかし今、この計画にとても興味がある。私を見ている人はいないという余裕もあれば、1人になる覚悟もある。計画を立ててみようと考えてしまうこの頃である。

 

一方で、覚悟していても、心が他人を求めてしまう時もある。大抵心に従うと他人に冷たくされてあっけなくフィナーレを迎えるのがオチだ。なので次期に、人格ごと思考を変えるべきなのかと今考えた。それを成すには、徹底的に追い込む必要があるのだが、そんなことをしてまで1人になる必要があるのかと心を横切る。確かにそうだ。私には1人になる理由がない。私には1人にならなくてもいい自由がある筈だ、と。だがしかし、他人に冷たくされる以上、私は他人に頼ると針を刺されるだけの身だ。やむなく1人になるしかないのだろうか。

 

私の不の思考はついに学校生活にも染み出してきた。前までは嫌でも明るく振舞って見せたが、最近は自分でも理解できるくらいに気力がなくなっている。他人に心配されることはまず無いと思うが、学校生活に何かしら支障がでると、何かとまずい筈だ。いや、もう今の私にとってそれも建前なのかもしれない。いっそのことそれでも良いのかもしれない。

 

考えるだけで一歩も進めない。何も解決できずに只々老ける。私はそれがとても怖い。本当に循環の輪から出ることができなければ、私もそれまでだし、これからも狭い世界で嘆いて生きるのだろう。不幸だと思う。情けない。誰にも相手にされず、独りでに死ぬ。それが私の宿命ならば、もう私は抵抗する気力を失ってしまうであろう。先の世界。それが分からずに先へと進む。一見聞くとそれはとてもスリルのあるワクワクするものだが、いまのわたしには、それらを感じるだけの何かが無い。その何かを探す人生など、もはや私を満足させるには小さなものだと思う。

 

※追記

上記の予想通り、今現在の私の心は晴れ晴れとしている。唯、心の中に説明の仕様のない不安は残ったままである。

新垣が落ち着くまで

今現在、とても落ち着いていない。それをごまかす為に、こうやって文字を打っている。あまりこういう行為はしたくないものだ。

 

私は不定期的に、落ち着きがなくなって、ひどい時にはそれが恐怖に感じて、物凄く不愉快な気分にする。自分自身が分からなくなっては、暴れまわって何もかも壊したくなるし、もう支離滅裂である。

 

こういうようなものが、どういう状態なのかわかる方は是非教えていただきたい。

新垣の反省

詩的な投稿にしたが臭かったなこれが。黒歴史になるであろう下記の投稿は、それはそれはノリで仕上げたものの、出来が良いとは思いたくないものだ。

 

詩のネタは確かに今日感じたことをそのまま使ってるが、あんな風に軽いような気分ではなかったと思う。心の奥にぐさっと刺さって染み出すような気分から始まっては、説明の付けようのない気分に満たされ、それはそれはとても不快な気にさせる。というわけである。

 

適当な反省もこれくらいにしようではないか。

新垣と日曜の悲劇

今日、はっきりと分かった。

私は、一部の友人以外、会うと不快になる。

そう、とても不幸なことである。

何故、そうなったのかは見当もつかない。

 

でも、そんな事では、自信を傷つけるだろう。

ほか、友人がしればどうなるのだろうか?

でも、悲しんでくれるのだろうか?

ほか、知らんぷりをして捨てるのか?

 

もう、私には分からない

今日、私を襲ったあの不快さは

また、私を襲うのだろうか

嫌だ、様々な分野で疲れるな

はは、結局1人にされるのか

新垣と不快な話

ホットケーキとミルクティーを腹に詰め込み、風呂に入ったのは良かったものの、私は暇になった。願っていてもそうでなくても暇になった。私は散歩をした。

 

やがてそれにも飽きたのか、私は図書館に寄った。フランス革命の資料と人間失格を読んだのだが、2冊とも、読み終わることはなかった。

 

理由は2つほどある。

 

図書館の利用時間が迫っていて、追い出されたからだ。

もう1つは、本を読もうとしても、ページをめくり、一文を読む度に心の底から落ち着きがなくなり、どうも集中できずまともに読めなくなったからだ。仕方なく、落ち着くまで私は空を見たが、定期的にその症状が出てくるばかりで、ついには、最後までそれが治ることはなかった。

 

本を読んでいる途中、館内に「カノン」が流れてきた。後から知ったのだが、これは館内放送で、利用時間が終わりを告げる為に流したものだった。この時私は、とても不快な気分になり、溜息を吐いた。この時4時48分。館内から退出願おうか、との「お願い」を私は応えて、館からでた。

 

その時から続いた不快な気分を、私は帰る時も、引きずらなければならなかった。今現在も、その不快な気分は健在だ。

 

この頃、私は不快になり過ぎている。とても鋭く、敏感になっているのは分かっているが、どう対応すれば良いのかは、今現在、私には分からない状態である。

新垣と半妖怪

何においても中途半端なものは、1番楽で1番面倒で不幸だ。しかし1番魅力的なのかもしれない。私は何においても中途半端で存在自体が中途半端だといっても万人は認めると思っている。

 

一例を挙げるとこれはひどい

 

人生に友達は必要ないと思っていても、どこか寂しく感じては求めたりする。

 

ロックミュージックなどというこれまた中途半端な音楽に熱中したのもそれであろう。私はブルースもクラシックも好きだが、両方とも演奏すると、勿体無い仕上げになるだろう。

 

完全なる人間がいないのと同じで、ろくでなしな人間が大勢いるのは、神からの宿命か。嫌がらせか。どちらにせよ、完全なる人間だけが存在するのなら、人はどれだけ単純に生活できたのだろうか。