新垣

罪人の記

新垣と繰り返される事事

今の私には刺激も欲も夢も満足出来るような状態では無い事は周知の事実である。私が望んだわけではないが、病んでは無理に生きようとしては、また病んで。その混沌とした循環に今の私は流されるだけである。人も歴史も同じ事を繰り返し変わって行くのだろうか。いや、あるいは、人の変化は360°までしか対応できず、変わっていっても客観的に見ると価値のない変化なのかもしれない。又は、変化はできるものの人の最大の武器である知恵がそれを阻み、循環させるのだろうか。

 

無駄な考えが友を離し、ただ時が過ぎて行くばかりである。もう私の周りには誰もいないのではないだろうか。いや、元々居なかったものに気付かなかったのか。私は私自身に自惚れていたのだろうか。仮にそうだとしても友達は建前でも私に手を差し伸べた事はいくつかあった。使えなくなったら手放す自由だとしたら、民主主義のソレは残酷だが、見逃すしかないのだろう。

 

私の欲は地底が見えるところまで無くなってしまったが、人の抑制装置なのかは分からないが、どうも開き直った人格になるらしい。もう死んでも構わないし、それを望むものも少なくはないだろう。唯、私はそれに答える時期なのだろうか。もう少し実を熟させるべきなのだろうか。私はもう、ブランデー入りの紅茶を口に葬る事が出来たならばこの身を捨てても構わない。それまで苦痛と向かい合うのも罰には丁度いいだろう。しかし、何のための罰なのだろうか?例え私が罰を受ける者であっても、何に値する罰なのかを知らないのは不幸だと感じる。これが唯の青春の甘酸っぱい混沌とした悩みで終わるなら良し。しかしどうせ私は長々とそれを引きずっては死ぬ理由を探しては正当化するのだろう。そう考えると実に情けなく、とても小さな器だと感じる。私は器とは程遠い存在だし、もうそれを望みはしないだろう。仮に私が器になるにしても、人の欲を収める事しかできなく、貯めると潰れ果ててしまうだろう。地理は積もらず地を壊す。そうなってしまうのがオチだと、笑い話のネタにされるだろう。私は昔から笑われた様な気もしてきた。それを憎んだにも関わらず、他人を許す振りをして、いくつかの人格を形成してしまったことに罰があるのだろうか。私はそれでも構わない、なんて聖人じみた事を言えるのだろうか。

 

私の様な物の役目は何だろうか。歴史同様、循環するものを回らせては、その流れに飲み込まれつつ拡大するためだろうか。昔なら潔く先陣を切り流れに逆らうことも出来たであろう。しかし今となっては混沌とした先を見たくない醜い心がそれを拒んでいるのかもしれない。どうであれ、私は知らぬ間に、行動しない自由を行使して甘えているのかもしれない。情けない。