新垣

罪人の記

新垣と昼寝

学校に設けられた図書室で、必然的に私は「銀河英雄伝説」を発見した。私は歓喜を奮い立たせ3冊借りた。今は2冊目の半分まで読んだ。

 

今の私は一部の娯楽と睡眠で維持されてる。これだけで維持するのはそう簡単ではない。 人は欲深く作られているのが宿命だとすれば、これだけの欲を有り難く感じて全うするのが聖人。

 

だとすれば、私は唯の凡人である。俗物までとはいかないが欲は深いだろう。欲を持たねば未来に光が見えない。上記の小説は少なくとも、今の私を満足させる為のものなので、後先の潤いを求めている。

 

保健体育で習ったが、身体的、精神的、社会的に満たされたものが健康である、と。今の私は3つ全てにおけて、健康なのか今ひとつ自信が持てない。本当に生活していく価値があるのだろうか。

 

今週の授業は楽なものが多く、昼寝をしたり、小説を読むなど、私的な時を過ごすことが多かった。腐敗した学校は、どうやら生徒だけでなく教師もそれに当てはまるのだろうかと考えながら汚れていったのだ。

 

昼寝をするのはとても良いことだ。効率よく動く為の集中力を身につけたり、疲れを取ることも可能だろう。何よりも、気分がいい。昼寝ができる環境を整えることは、すなわち、1つの賢い戦略だろう。

 

今思ったことだが、人の幸せは本当に自分が決めるものだろうか。これも、従来の歴史と似たものがある。

 

例えば、1人の人間が居るとして、だ。その人間は死ぬまでとても楽しく生活できた。しかし若くして戦争によって命を落とした。 これを不幸だと思うのは無理はない。例るのも無理があろう。

 

しかし、今の判断は、その人間が幸せかどうかを無視して、我々が勝手に不幸だと決めつけたのである。 今一度考えると、人生は、後世の人に羨ましがれるような「脚本」じみたものを創造し、演じるものかもしれない。

 

今まで目立つようなことをするのが好きだったのは、他者に認められたかったのかもしれない。そう考えると筋が合う。

 

目立つ行動をしなくなって感じたのは、誰も私を見ていないことだ。ようやく気付いたのだが、とても痛々しいことだ。人は他者を見ものだと思って居るのならば、ひどい現実だろう。

もっとも、これも見ものならば、私はもう口を開けることに抵抗するだろう。