新垣

罪人の記

新垣の循環している憂鬱

twitterというこれまたダメな人達が集まっているサービスを利用して、ブログを更新すると堂々と宣言してしまったからには、今こうやって画面と面向き合って文字を打っている。しかし参ったものだ。今の私にはネタと言えるような面白い出来事がない。それはそれは、生まれてきてからもそんな童話のような世界を私の目が捉えてきたのは絵本とかTVとかのメディアの類だけである。粋と言うには程遠い感性なので、大変損を重ねてきたであろう。のちの歴史家がどう捉えてくれるのかが、楽しみである。

 

今思えば、私の憂鬱な気分は循環している。どうせ何も解決しないまま心は晴れ、また曇り震えるのだろう。なんと無意味な循環なのか。エネルギーの消費である。無駄な行動である。意味のない遠回りである。時間潰しの助長である。それを考えるだけで我を見失っては、また嫌になるのだろう。これも循環の1つならば、私はどれほど狭い世界で生活しているのだろうか。

 

後先を考えると心がとても痛くなる。なぜなら、想像した先には、私以外の人が見当たらないからである。今後の展開を予知しているのだろうか。ならばそれは、そう遠くはないだろう。これから先にも苦痛が待っているのかと考えるだけで、もう充分な気持ちになる。心を害されると、また悪循環の始まりである。友達を信用できなくなり、また離れ、ついには1人になりましたとつまらないbad endを迎えるのは私は受け入れない。受け入れたくないのだ。

 

人はそれほど上手に出来ていない。最近はそればっか感じさせては、他人の悪意を紛らわせてきた。確かにその通りだが、他人の悪意を紛らわせて一体何になるのだろうか。分からない。そこで昔、友達を肩指に収まる程度まで減らすプロジェクトを進めたことがある。結論は、放棄した。何故なら、無謀だし、計画性がなかったからである。しかし今、この計画にとても興味がある。私を見ている人はいないという余裕もあれば、1人になる覚悟もある。計画を立ててみようと考えてしまうこの頃である。

 

一方で、覚悟していても、心が他人を求めてしまう時もある。大抵心に従うと他人に冷たくされてあっけなくフィナーレを迎えるのがオチだ。なので次期に、人格ごと思考を変えるべきなのかと今考えた。それを成すには、徹底的に追い込む必要があるのだが、そんなことをしてまで1人になる必要があるのかと心を横切る。確かにそうだ。私には1人になる理由がない。私には1人にならなくてもいい自由がある筈だ、と。だがしかし、他人に冷たくされる以上、私は他人に頼ると針を刺されるだけの身だ。やむなく1人になるしかないのだろうか。

 

私の不の思考はついに学校生活にも染み出してきた。前までは嫌でも明るく振舞って見せたが、最近は自分でも理解できるくらいに気力がなくなっている。他人に心配されることはまず無いと思うが、学校生活に何かしら支障がでると、何かとまずい筈だ。いや、もう今の私にとってそれも建前なのかもしれない。いっそのことそれでも良いのかもしれない。

 

考えるだけで一歩も進めない。何も解決できずに只々老ける。私はそれがとても怖い。本当に循環の輪から出ることができなければ、私もそれまでだし、これからも狭い世界で嘆いて生きるのだろう。不幸だと思う。情けない。誰にも相手にされず、独りでに死ぬ。それが私の宿命ならば、もう私は抵抗する気力を失ってしまうであろう。先の世界。それが分からずに先へと進む。一見聞くとそれはとてもスリルのあるワクワクするものだが、いまのわたしには、それらを感じるだけの何かが無い。その何かを探す人生など、もはや私を満足させるには小さなものだと思う。

 

※追記

上記の予想通り、今現在の私の心は晴れ晴れとしている。唯、心の中に説明の仕様のない不安は残ったままである。