新垣

罪人の記

楽しいことと死にたいというこの2つ。関連性があると思っていたが、今はそうは感じない。楽しいことがあってもとても死にたくなる時だってあるのだ。現に私は、仮面ライダーblackのおかげでとても楽しい思いをし、チャーリーパーカーを聞いて、最高の気分だった。しかし、そこでふと思ったのだ。このまま死ねたら良いのに、と。その発想は後にそうなればよかったのに、という無責任な後悔へと変わっていったのだった。LINEの一言において、友達のそれが不穏な空気で漂っていた。しかも1人だけではない。この状況下で、私は自身に向けた矛と想定し、とても憂鬱な気分にさらされている。馬鹿げた発想かもしれない。想像の翼が一回り大きかったのかもしれない。しかし、この行為が、この発想が、自身を守る盾の役目だとすれば、これも仕方のなかったものだろうか。世の中の出来事は必然にて動いている。その必然に従って友達に嫌われるのなら、私はとんだ罪人かもしれない。死んで詫びるには重すぎて、友達を無くすには軽すぎる罰。そうやってじわりじわりと罰を命じるのだろうか。もし神が、人と同じ姿ならば、私は口が滑って「人が人に罰を与えようなどと」なんて事を言いたくなるかもしれない。しかし、神にこんな事を言うのは、仕方がない。神だって、私以外の誰かに、似た様な事を言われている筈だ。今日ばかりは、神に同情して、罪を受けるとする。しかし、神という存在はとても悲しくて、辛いのではないかと思う。そしてこうも思う。我々が呼んでいる神、という存在は、4次元の人々ではないのか。4次元の人々の想像において、我々が生活しているのではないか、と。4次元の人々も、多々いるであろう。世界は我々が思っているよりも広いのだろう。いや、唯の妄想が膨らみすぎた。これは色々な矛盾が見える。指摘されるのは好きじゃない。ここはやめにする。ところで、神、という存在は我々を救ってくださる聖なる存在か、我々に罰を与える怖の対象なのか、と。これも私の存在豊かな翼が、広々と羽ばたいているのかもしれない。そもそも、この話に特に意味はない。却下にする。ところで、私は踊らされている気もする。相手の一言が挑発的に見えたからだ。私をからかうには充分すぎる挑発の仕方だ。1つの出来事だけでもどうにでも考えられる事ができる。世界の旅は、まだ完成してはいないのだろう。大陸をまたぐとかの意味ではない。昔から続いてきた新たなコミュニケーション、という世界において、人は攻撃したり、されたり、その大陸に上陸できずに、死を選ぶ者もいる。物事において、様々な考えを持つ。と言う事を、先人達は個性と表した。が、しかし、それらはもはや、事実と名乗ったとしても今や当たり前の世の中になっている。その人々の個性ではなく、見所を変えただけの真実なのだ。そう感じる。今、我々に待ち構えているのは、攻撃に耐えて上陸するのか、攻撃に絶えて死を選ぶか。とても鬼畜な上陸作戦である。この、歴史上誰もが挑んできて、上陸出来たものが繁栄しているこの世界で、今誰かが、コミュニケーションという名の大陸を書物で保存する者がいるのだろうか。