新垣

罪人の記

新垣と道化

長期休暇というありがたい言葉を頂いたにも関わらず、相変わらず私に良い人格の私を演じさせようとするのだろうか。私の周り、つまりは友人の多くは、それを望んでいるし、それを好んだり嫌ったりする。しかしながら、私を構成しているものは少ない娯楽と死への興味などが主である。それを詳しく述べる予定は無いのだが、周りはその中身の少ない器の皮を評価したがる。器の錆を鑑定する鑑定屋など私は聞いたことはない。ましては、ぼろっと本音をこぼしても、途端に口を閉ざそうとする。器の小ささを多くの友人は大きく見せたがるものだ。私はK殼に値する小ささの筈なのだが……

 

 

もちろん、私の器の小ささや私の本音を受け取り、拾い集める物もいる。数は少ないが、それらは、僕の貴重な支えと称する存在だ。しかしながら、それらの中にも、まるで白紙一枚のように軽く、真っ白な対応をする者も少なくはない。その方々や、多くの友人達には、とても型では表現できぬような不愉快な感覚に襲われ、恐る。そして震えだす。私の心身はプレッシャーに弱いようだ。手が震える、というのは生活に支障が出る、とても不愉快な作用なのだと私は考えてる。これらの存在から縁を切るのも良しとするならば、生活の為に待っている反感への対応の策とやらを練る必要が出てくる。

 

同時に、それらに属さない、中間とも言い切れない、中途半端とも違う、良い加減とも表現できぬ存在である。自他の距離を見出せる賢人や、俗に言う何も思わない他人とは、そのようなプレッシャーはない。故に私のクラスはとても疲れる悩みの種であると同時に、距離をわきまえてる集団と接する場なので楽な一面もある。私も深く考えなくて済むので、有難く文句を言える身にもなれる。民主主義の自由一覧を活用できる場でもある。対に、私を苛立たせる者達の集団的暴行とも言える精神的攻撃に近い絡みは、なんとも言えない疲れを引き出すストレスの元でもある。

 

 

私は、器の小ささを認める者以外には、仮面を被せた道化を演じている、という比喩表現が似合う気もしないわけでもない。道化を見て、人々は満足してきた。そう考えてみると、やはり私は、求められた状況などに手を出して取り組むのが、人生の課題なのかもしれない。しかしながら、今の私に分かるものは、なんとも言えない、なんと捉えて良いかもわからない、唯ボンヤリとした不安、と名乗るにはまだ早いが、ボンヤリとした何かが私の中でうごめいてる。そして、それは、私自身を何かに駆り立てる時もある、というのも事実なのかもしれない