新垣

罪人の記

新垣の迷い

憂鬱なソレは、まるで私に飽きたように去っていった。再び我が心に清々しい風が吹いて来たのはこの後からである。しかし、風が吹いても、私の心の中に残っている迷い、や、不安、などは吹き飛ばせずにいた。ボンヤリと1日を過ごして終わりを嘆き後悔する日々は今ひとつ変わらず。唯、時の流れに身を任せ、再び憂鬱なソレに飲み込まれるのを待っているようにも感じてしまう。愚かにも、私は次なる憂鬱に対抗せず、むしろ飲み込まれに行くような姿勢に見えるだろう。それは、上記で述べたその不安や迷いの所為だと、少なくとも私は思っている。

 

今日の夕食の時間。私は肉料理を食べ、心身を満たそうとした。そこにキャベツの千切りサラダを見た。箸を近づけようと手を伸ばしたとき、ふと私は考えた。

何故、この植物は今世まで後を継いで生きるのか

 

そんな事を我々人類が、その種の生物たちを嘲笑い、冷たい目で睨むような残酷さを感じた。

少なくとも、その手の質問は我々人類にも言える事だろう。何故だろうか。可愛げのない阿呆は子孫を残すため。又或るキザな者は与えられた人生を自分だけの物にする。など言うと私は予想した。勿論、それらは間違いでもなんでもない。事実である。しかしながら、子孫を残すことは彼らキャベツ達にも言える事であろう。仮にキャベツ達に与えられた人生を自分だけの物に出来ないとしても、我々がそれらを区別して見下す意識を持つ事は罪に値するものではないのかと考えた。食事は喉に通らなくなった。申し訳なさはこれっぽっちも無かったのだが、不思議でたまらない。私はその、不思議でたまらない、と言う言葉が昔から嫌いだった。自分自身は常識人だ。自分自身は大衆の意見に沿っている。などと言う理解し難い自信に近く、愚かな思考だと思っていた。然しこうして見ると、自身も老けたものだと痛感するようにも思えた。

 

 

故に我々は頭を柔らかくする必要がある。それだけではなく、自分自身の意思、や思想、が必要になる。唯、自身の絶対的な正義と、絶対的な常識は除く。この正義、や常識は、一定値を超えてはいけない謂わばネット料金に近いものだと思う。或る程度の量は他者を満足させることができる。が、一定値を超えては他者を不快にする。見極める為、又相手を尊重、理解する為の柔らかい頭と、自分自身を象徴する考えを必要とする考えを一層強める事も必要なのだと、ブログを更新するに当たって染み染みと思う。